アリアンナ、ジルダ、ベレニーチェ、ダニエラ、ミレーナ、シルヴィア、ヴェネッサ、レティーツィア。
歌うようにつむがれる声は、雨音に混じって湿る。泣いてるわけじゃないだろう。メローネが泣く姿なんて、世界中の誰もが見たことないにちがいない。
プロシュートがホテルロビーの小さなバールで一杯引っかけてから部屋に戻ると、メローネはベッドで寝てしまっていた。仰向いて、体を一直線に伸ばし、胸の上で両手を組んでいる。まるで棺桶の中の死人だ。祈りの姿にも似ている。
プロシュートは胸ポケットから煙草を取り出して、上着をイスの背もたれに放り、メローネの眠るベッドの端に腰かけた。一本くわえてマッチを擦るが、雨で湿気たか、なかなか点かない。ようやく灯った炎は、薄暗い部屋をほのかに照らし煙草の草を焦がした。
火の消えたマッチ棒をベッドサイドの灰皿で潰したときに、その声がしたのだとおもう。
アリアンナ…。子供のような、舌ったらずな発音だった。
振り向くと、ベッドの上で死人のように眠るメローネがいる。眉尻がやわらかく下がり、深く閉ざしたまぶたに雨粒を垂らす窓の影が映っている。
寝言だろうか。煙草をくわえたまま、プロシュートがなんとはなしにメローネの寝顔を眺めていると、その唇がかすかに震えた。
ジルダ、ヴェネッサ、レティーツィア…
泣いてるのかと思った。声が湿っている。でも深く閉ざされたまぶたから落ちる涙はなかったし、うなされてるような表情でもない。
(昔の女か)
女性という存在を、モノか道具ぐらいにしか思ってないメローネが、過去の恋人たちをなつかしがったりするとは到底思えなかったが、唇からこぼれるそれは女の名だ。
プロシュートは眠るメローネから視線を外し、窓の外を見やった。雨粒の浮かぶガラス窓の向こう、灰色に曇った建物たちを眺めながら、紫煙を浮かばせる。背後からはやはり時々、女の名を呼ぶ湿った声がする。子守唄のようにささやかな声。雨にけぶる街並み。白く溶けていく煙。静かに染み入る雨音。
「……プロシュート」
肩ごしに視線をやると、メローネがまぶたを上げて、グレイがかった色の瞳をプロシュートに向けていた。
「いつ戻ってたんだ…気付かなかった…」
「ついさっきだ。おまえ、寝言いってたぞ」
「は…ウソだろ」
眠たげな声でため息をつき、メローネは手の甲を目元に押し当ててこすっている。それから両手を宙に向かって伸ばして、ごろりとプロシュートの方に体を転がした。
「変な夢みてた気がするよ」
「女の夢だろ」
「なんで?」
「アリアンナ、ジルダ、ベレニーチェ…」
プロシュートが紫煙とともに吐いた言葉に、メローネはぱちぱちとまばたきをくり返した。一気に上体を起こして、乱れた髪をかき上げる。
「なんでその名前を」
「寝言いってたっつったろ。夢で見るなんて、ずいぶんいい女だったんだろうな」
「ああ…そうだな。いい女だったぜ」
メローネが背後から指を伸ばしてきて、プロシュートの唇から煙草を奪った。
「みんな死んだけどね」
深々と吸って、フウと吐き出す。雨の湿った空気に、白い煙がほどける。
「おまえが殺した女たちか」
「いいや。俺の母親たちさ。ダニエラ、ミレーナ、シルヴィア…」
「…何人でヤッた結果のガキだよてめーは」
途端に笑い声をあげるメローネから、プロシュートは煙草を奪い返した。メローネはやっぱり笑ったままだ。
「下品だなぁアンタ、その思考どうかしてるぜ」
「おまえにだけは言われたくねぇな」
「残念だけどもっと感傷的な意味合いだよ、母親ってのは。つまり、育ての親ってやつ」
アリアンナ、ジルダ、ベレニーチェ。メローネの唇が、なにかの旋律のようにくり返す音。それらはドビュッシーのつむぐ音楽のように、雨ににじみ溶けていく。しとしとと染み込んでいく。彼女たちは俺を愛していた、と言うのでおまえは愛してなかったのかと聞くとメローネは、愛していたよ、と答えた。
「彼女たちは俺をめちゃめちゃ可愛がってたんだ。服だって靴だって買ってくれた。ガキの頃は女モノの服とか着せられたりして。カワイイお人形さん扱いだった」
「なるほどな。それでそのファッションセンスか」
「イカしてるだろ?彼女たちはどうすれば自分がもっとも美しく見えるか、その方法をよく知っていたから、いつだって磨きたての陶器みたいにキレイだった。男たちに自分を買ってもらうために、最大限に美しく着飾ってた。ミレーナ、ヴェネッサ、レティーツィア…みんなイイ女だった」
「愛してたのか」
「ああ。俺が愛したのは彼女たちだけだよ」
メローネは背中合わせにプロシュートにもたれかかった。起き抜けだからか、服越しに伝わるメローネの体温があったかい。雨に湿った空気の中、そのあたたかさはじんわりと肌に染みた。
「彼女たちが本当のマードレならなぁ、俺はもっとイイ子になれたはずなんだ。最低の母親と最低の父親から最低の子供がうまれるのは、当然じゃないか。俺はもっとイイ子になりたかったよ」
メローネの長い髪がざらりと背中を撫でる。ひたひたと雨の音。プロシュートは煙を吐く。白が空気に溶ける。
「ねぇプロシュート、あんたはイイ子だった?」
「もしそうだったなら、こんな所でこんな商売してねぇよ」
「そうだな。じゃあアンタもきっと、母親をまちがえたんだ」
ああでも、アンタの容姿が母親譲りなら、まちがいじゃなかったのかも…。意味のわからないことを呟きながら、メローネはまぶたを閉じたらしかった。背中あわせで見えないけれど、気配でわかる。プロシュートの背にもたれかかるメローネは、とても眠たそうで、もう一度夢の中に帰りたがっていた。彼女たちの膝の上へ、戻りたがっていた。プロシュートは、背にのしかかる体を重たいと思ったが、払いのけたいとは思わなかった。だから払いのける気が起きるまで、背中を貸してやることにした。
吐き出した紫煙がまきあがって天井を白く染める。背中越しに伝わる体温はぬるくて、ゆるやかな眠気を誘われる。プロシュートはあくびをひとつ、濡れた睫毛を震わせ目を閉じた。メローネのように美しく思い出せる女性は、誰一人、まぶたの裏に浮かんでこなかった。