プロシュートがここ一週間ほどまともに寝ていないことは、放つオーラがいつもの数倍重いことから知れていたが、こんなときに限って、わざと図々しさを装いそれとなく訳を聞きだせるホルマジオも、弟分のくせにわりと遠慮のないペッシも、そしてそれこそ遠慮やためらいなく実力行使可能なリゾットも、そろって不在。なんともタイミングの悪い。
「Bene!このブラウニー最高」
「そう。だからおめーしかいねーって話だ。たのんだぜ」
「なんの話?」
「プロシュートだよ。聞いてなかったのかよ?あぁ?」
眼鏡を押し上げて睨んでくるギアッチョに、メローネは肩をすくめてみせる。ギアッチョに睨まれたところでメローネはまったくへっちゃらなのだが、こうゆうときはちょっと、おびえて見せたほうがいいにきまってる。手袋をとった指で、少し目元のマスクを直す。
「ブラウニー1個で俺を買収したってゆうのか?安くみられたもんだな」
「店で一番でっかいやつだぜ。2個分ぐらいの価値はある」
「いいことを教えてやろうかギアッチョ。おまえはその店で一番でかい2個分の価値のあるブラウニーを持って、そのままプロシュートの元へ行くべきだった」
「あのヤローが甘いもんひとつでどうにかなるかよ」
「俺はどうにかできると思ったか?」
今度はギアッチョが肩をすくめる番だった。的確なツッコミには言い訳のしようもない。
「なんにせよおめーは俺が買ってきたブラウニーを食った。それ相応の対価は払ってもらってしかるべきだろ」
「ふん…」
ギアッチョはメローネを甘くみすぎてるし、プロシュートを恐れすぎている。それがメローネにはわかっていたが、指摘してやる義理もなかったので、聞き分けのいいふりをしてスツールから腰をあげた。むしろどっかの鏡から見てるだろうイルーゾォの方がメローネからすると憎たらしい。
こうして店一番のブラウニーを食べそこねたがそんなことは知るよしもないプロシュートは、吸い上げたばかりの煙を汽車のように吐き出して、山積みの灰皿にまたひとつ吸い殻を突き刺した。すでに不格好な剣山にちかい様相を呈している。
イスに脱力ぎみに座って机の上に放り出した片腕、向かい合うは曇り空を映す窓ガラス。そこに悪霊も寄りつかないだろうってぐらい不穏な形相をした自分の姿を見つけ、またひとつ、吸い殻の墓標を増やす。
コンコン、ノックがあったが無視。しかしノックの主はそんなことおかまいなしだ。
「チャオ」
肩越しに視線だけ振り向くと、扉のすきまからメローネが半身のぞきこませている。
「夕方5時に、アメリーゴ通りの教会の裏手だ、遅れるなよ」
一見仕事の指令のようなそれが、しかし公務ではないと瞬時に判断する。根拠のない勘だった。
「なんのことだ」
だから真意を問うために仕方なく声を放つが、メローネはむしろ心外そうに素手で長い髪をかきあげた。
「知らないのか?パリコレにも出てるヘアアーティストの新店舗。予約とるのに2ヶ月かかった」
「てめーでいけ。てめーの予約だろう」
「あんた鏡見ると変な幻覚みちゃう病気かなんか?そうじゃなかったらいっぺん鏡見てみろよ。ひどい顔だ。それじゃあ街のチンピラどころか田舎のバンビーナも寄りつかないぜ」
好き勝手いいながら勝手に部屋に入ってきたメローネは、煙草くさいと眉をひそめ勝手にプロシュートの目の前の窓ガラスを開け放った。湿った空気が髪にもつれてプロシュートは目を細める。
窓枠に寄っかかって、メローネはマスクで覆われてる方の目で見下ろしてくる。あきれたような表情だ。
「ギアッチョが動物園のクマみたいにウロウロして見てらんない。昼の食事ぐらい顔だしてくれないか。無理に食えとはいわないから」
「そろそろホワイトアルバムで突撃してくる頃かとはおもってたがな」
「あいつのキレ具合は自分で確認してくれ。はやくあんたが元に戻ってくれないと俺が肥満になっちまう」
ブラウニーで、という呟きはプロシュートの耳に届いたが意味がわからなかったので黙殺された。プロシュートは適当にまとめた髪を一度ほどいてガシガシかき乱した。メローネが肥満になるのはどうだっていいが、たしかにこの髪が指にからまるのは問題だ。
「5時にアメリーゴ通りだな」
「自腹でたのむぜ」
「グラッツェ、メローネ」
メローネは口の端をくっと上げて笑った。
「男前を完璧に磨いて帰ってこい。ヴォーグのモデルになって、アメリーゴ通りをショー・ステージがわりに歩くんだ」
「はっ…」
想像してみたが悪くはない。プロシュートは自分の魅力をよく理解していたし、磨きあげた靴と整った髪で街中を闊歩すれば、どれほどの視線が自分に集まるかも容易に想像できた。
「土産はなにがいい。チョコバナナのブラウニー?」
「勘弁してくれ。それよりギアッチョになにか甘いものを」
「たとえば?」
「そうだな、キャンディをボックスで」
子供扱いすんなこんなモンで喜ぶかよガキじゃねーんだと文句を垂れながら、色とりどりのキャンディからお気に入りを選びとるギアッチョの姿が思い浮かぶ。